初対面で宗教の話ができないのはなぜかという話は初対面でしてもいいですか?

初めて会った人や、あまり親しくない人とは、宗教の話はしてはいけないと言われる。なぜだろうか。

アニメや漫画、小説、音楽、スポーツ、科学などの話はしてもいいのに、どうして宗教はだめなのだろうか。

それは、一般的に、日本人が宗教を話す際のコンテクストを一種類しか持っていないからである。そのコンテクストとは、「信じるか、信じないか」である。

「信じる」という行為はかなりハードルが高い。その考え方をただ好きだ、とか、興味がある、とか、面白いと思う、とか、そういう次元ではない。信じるとは、いつもそれに従って生きる、と意思決定をすることである。

日本人は、宗教の話をする際、信じるか、信じないかという文脈の上でしかその話を捉えることができていない。そう捉えてしまうと、否応なく、その話は自分に信・不信の重大な選択を迫ってくるように感じ、重苦しく感じてしまう。また、自分がその宗教に勧誘されているのではないかと疑っていしまうこともあるだろう。これが、宗教の話がタブー化される原因である。

しかし、本来は信・不信以外のコンテクストで宗教を捉えても良いはずである。アニメや小説と同じように、その宗教の教えがためになるのか、ならないのか、面白いのか、つまらないのか、そういったライトな捉え方をしても問題ないはずである。

キリストってどんな人?悟るってどういうこと?コーランには何が書かかれているの?こういった疑問を、信じる、信じないではなく、ただ純然たる興味本位で投げかけても良いのである。

確かに、宗教の話をする人の中には、一定数、勧誘を目的にしている人もいるだろう。しかし、たとえそうだとしても、その話をする価値が全く無いわけではない。

古代、宗教は社会を築く礎となり、今日も世界中の人々が何らかの宗教を持って生活している。宗教は、社会という、人間の本来もつ認識能力からすれば大きすぎる共同体を陰に陽に支えており、私に言わせれば、それはもはや、インフラとも言える代物なのである。そこから無条件に視線をそらし、無視しようとするのは、社会に暮らし、その恩恵を得ながら生きている一人の人間として、少々無責任な態度ではないだろうか。

宗教について話さないようにするのではなく、どのように話せば話せるようになるのか。それを考えながら生きていきたい。

あきらめコンテンツの時代と森田童子 上

はっきりと言おう。今は、あきらめコンテンツの時代である。

そう考える根拠は2つ。異世界転生系コンテンツの台頭と、ヒットソングの歌詞である。

まず、異世界転生系。

転生したらスライムだった件」、「二度目の人生を異世界で」、「Re:ゼロから始める異世界生活」...。このように、名前をあげればきりがないほど、同様のコンテンツが氾濫している。

異世界に転生して、人生をやり直す。こう言うと、一見聞こえは良いが、つまりそれは、今住んでいるこの世界で、この人生をどうにかしようという気は全く無いということである。

もう自分の人生は終わっているから、何か凄いことをするのなら、転生でもしない限り無理、という大きなあきらめが、これらのコンテンツの下地になっていると感じる。

次に、ヒットソング。

まずは、昨年末の紅白歌合戦でも演奏されたOfficial髭男dismの「Pretender」。歌詞の一部を引用する。

もっと違う設定で もっと違う関係で 出会える世界線 選べればよかった もっと違う性格で もっと違う価値観で 愛を伝えられたらいいな そう願っても無駄だから
そして、これまた昨年の紅白出場、King Gnuの「白日」から。

まっさらに生まれ変わって 人生一から始めようが へばりついて離れない 地続きの今を歩いて行くんだ 真っ白に全てさようなら 降りしきる雪よ 全てを包み込んでくれ 今日だけは 全てを隠してくれ
芸人など、多くの芸能人がカバーしたことでも話題になった瑛人の「香水」からも引用したい。

でも見てよ今の僕を クズになった僕を 人を傷つけてまた泣かせても 何も感じ取れなくてさ
別に君をまた好きになるくらい君は素敵な人だよ でもまた同じことの繰り返しって 僕がフラれるんだ
さて、この3曲の歌詞を見て、どう感じるだろうか。

異世界転生系コンテンツと同様、私はそこに、大きなあきらめを感じる。というか、もはや、”あきらめしか”感じない。

どうせやっても変わらない。こうやって生きていくしか無い。もう頑張らない。

そんな空気が濃く漂っている。

売れるコンテンツとは、その時代の空気感にマッチしたものだと思う。共感する人が多いからこそ、売れるのである。

ということはやはり、異世界転生系コンテンツやヒットソングに通底している、この”あきらめ”こそが現代の日本人を包み込む感情なのだろう。

「なるようにしかならない。」「頑張っても無駄。」「未来に希望なんかない。」「ただ粛々と生きていこう。」

こういった感情に、今の日本人は支配されているのではないだろうか。

だが、それも無理のないことかもしれない。指数関数的な科学技術の発展に伴い、社会やライフスタイルは目まぐるしく変化している。その中にあっては、抗おうとも抗えないものに、頻繁に直面せざるを得ない。そんな生活が続けば、無力感にさいなまれるのも致し方ない。

しかし、やはりこれは、非常に悲しいことである。未来を担う若者が、このようなコンテンツに頻繁に触れ、希望の芽を自ら摘んでいるのだから。

しかし、このようなコンテンツは、何も今だけのものではない。実は、過去にもこうしたあきらめを歌っていた時代があった。

1970年代。全共闘が収束した直後、社会を変えることができなかったという大きな”あきらめ”が若者を襲った時代である。

その時代、ある一人のミュージシャンがデビューした。彼女の名は、森田童子(もりたどうじ)。

続く

 

アシタカはなぜ「生きろ。」と言ったのか(もののけ姫考察)

 映画もののけ姫で、瀕死になった主人公アシタカは、もののけ姫サンに対し「生きろ。」と告げる。では、どう生きれば良いのか。私は、この映画にそう問われているように感じた。生きるとはどういうことなのだろうか。
 主人公アシタカは不条理に苛まれながら生きる少年である。彼が平和に暮らしていた村に、ある日タタリ神が襲いかかる。アシタカはタタリ神をなんとか鎮めようと説得を試みるが、それでも止まらないタタリ神に彼は叫ぶ。「なぜ我が村を襲うのか?」これは、身に降りかかる不条理に対して放たれた彼の第一声である。村の少女たちに襲いかかるタタリ神に彼はやむを得ず弓を引き、打ち倒すが、右腕に呪いを受ける。その呪いは死に至るものであり、彼は村を追われる。ただ平和に暮らしていただけのアシタカは、村を救うために戦い、それによって死の呪いを受け、流浪の生活を始めざるを得なくなるのだ。
 もののけ姫サンもまた、不条理とともに生きる少女である。彼女は赤ん坊の頃、山犬モロの生贄として差し出され、その後モロに育てられた。山犬と自然の中で生きてきた彼女は、自分は山犬であると宣言し、山を削る人間を憎んでいる。しかし、山の神々は彼女を山犬とはみなさない。彼女はもののけになりきることはできないのである。彼女は好き好んで人間として生まれたわけではない。むしろ心から山犬になりたい。しかし、いくら毛皮をはおり、仮面をつけても、彼女はやはり人間なのである。サンは、彼女自身が、彼女が心から憎む人間であるという事実から逃れられないのである。
 このように、彼らの人生は、彼らの予想もできないような事柄に、一方的に翻弄されている。どれだけもがき、あがこうと、決して変わることのない何かを抱えながら生きることを余儀なくされている。この上ない不条理。理由のない苦しみ。折り合いのつけられない感情。彼らに降りかかるのはこういった種類の試練である。それでもアシタカはサンに言うのだ。「生きろ。」と。
 アシタカはなぜ生きるのだろう。それは、彼にふりかかった不条理に対する回答を見つけるためである。自分はなぜ苦しまなければいけないのか。その苦しみを取り除く方法は無いのか。映画の前半は、それを見定める旅が、彼にとって生きるということだった。そして、彼はその回答を得る。彼の苦しみの原因はタタラ場にあり、呪いは消えることはない、という回答である。これはアシタカに、彼に巣食う不条理の根深さを伝え、絶望を与える。少しずつ大きくなる呪いのアザは、消えることのない不条理の刻印であると彼は知る。
 しかし、それでも彼は生き続ける。それはなぜか。彼の周りに生きる生命が、共に生きる道を探すためである。サンやタタラ場の人々だけでなく、森や神々、そのすべてが共に生きる道を探すためである。この時彼を動かしていたのは、彼を不条理の穴に落とし込んだ人間の業と、そこから生まれる恨みに対する恨みであったと考える。彼は恨みを恨んでいる。人がもののけを恨むのか、もののけが人を恨むのか。彼にとってそれは重要なことではない。彼は恨みそのものを恨んでいるのだ。彼は身を持って痛感している。恨みが生むのは悲しみと怒りだけであるということを。彼は刻々と終わりに近づく命を、恨み以外の答えを見つけ出すために燃焼する。人間活動と自然。タタラ場と森。エボシとサン。人間の業とシシ神。これら利害が相反する存在が共に生きる道はないのか。映画の後半は、この問の答えを探すことが、彼の生きる意味になった。
 ここで私達自身に目を向けてみよう。私達が日々抱える葛藤の原因の多くは、私達が干渉のしようのない場所で形成される。例えば、テストの点数が伸びずに悩むのは、テストの結果で人間の優劣が決まるというシステムのある社会に生まれたからであり、お金が無いと悩むのは、資本主義社会に生まれたからである。私達の持つ苦しみの中で、(自分自身で解決することが非常に困難であるという意味で)最も厄介な苦しみは、この種の苦しみ、つまり、わけのわからないまま、気がついたら苦しんでいる、という種類のものである。これは不条理以外の何物でもない。つまり、アシタカやサンだけでなく、私達の人生にも不条理はついてまわっているのだ。そしてその不条理を意識する時、私達は、狼狽の檻の中に閉じ込められ、憔悴し、ニヒリズムへといざなわれる。そして、疑問を抱くことにすら疑問を抱くようになってしまう。「そんなことを考えてもどうせ変わらないでしょう」と。
 これは生きる意味の消失である。「どうせこういう風に生きるしかないんでしょ」このような言葉で作られたフレームに人生をはめ込み、場当たり的な快楽を目指し、無気力に過ごす。これが不条理のいざなう世界である。それでも、順調に物事が進んでいるときは特に問題はないかもしれない。しかし、そんな状態で人生の岐路に立たされると、話は違う。その瞬間、私達は自分で選び取らなければいけなくなるのである。不条理に対し、不条理だと分かりながら、手を伸ばさなければいけないのである。その手の伸ばし方を考えなければいけないのである。
 私達は、このような瞬間にどう備えれば良いのだろうか。そのヒントを、アシタカから得ることができる。彼は、それが不条理であると知りながら不条理に挑む。タタラ場と森は共存し得ないと分かっていながらも、その道を模索しつづけることを諦めないのである。その時、呪いのアザが広がる彼の背中を押ししたものは一体何だったのだろうか。
 私はそれを、天命とも呼べる使命感だと考えている。そして、その使命感は、彼が不条理を受け入れることで得られたものだと考える。アシタカは、彼に襲いかかったタタリ神の想いを受け入れ、その原因となったタタラ場の人々とその生活を受け入れ、それらに人生を変えられた自分自身を受け入れる。誰かを敵にして、恨み、排除するのではなく、矛盾する存在が相互に作用しているこの世界そのものと、それに翻弄される小さな存在である自分をまるごと受け入れる。それが全編を通してアシタカを貫く姿勢である。その上で彼は考えたのだろう。自分がするべきことは何なのか、と。世界の不条理と自分の人生を「曇りなき眼」で見た彼は、恨みが悲しみと怒りを生み、新たな恨みへとつながっていくことを知る。そして、恨みをこの世界から無くすという使命を、天命を感得するのである。
 私も、受け入れることから始めてみたい。この世の不条理を。終わることのない矛盾を。そして、そんな世界にさいなまれる自分を。そうすることで、目の前の霧を払うのだ。そして、自分の人生を直視するのだ。そうすれば自然と立ち現れてくるだろう。この世界に生まれた私がなすべきことが。私が生まれ、生きる理由が。たとえそれが、自分が思い描いていたような立派なものでは無かったとしても、それによって生きることが、本当に生きるということなのではないだろうか。それが、この映画が私に問う生き方なのではないだろうか。
 ラストシーン、一度は全ての生命が吸い取られた山々に草木が芽生え、一匹のこだまがカラカラと首を揺らす。これは、原生林の大いなる復活とは程遠いほんの小さな再生である。しかし、この再生は、アシタカがこの世界で、サンとエボシと、森とタタラ場で“共に生きていく”ことを祝福しているかのようである。

素朴であること

「素朴」という言葉が、近頃わたしのテーマです。素朴なまま生き、素朴なまま死ぬことができたなら、それはすごく幸福なことではないかと思うのです。

素朴な言動や姿勢は、その人の人生を丸ごと肯定しうる力を持つかのように感じるのです。素朴な人を見ると、彼のそれまでの人生が、良い人生だったと証明されているように感じるのです。

わたしは、素朴になりたいのです。もっと、素朴でありたいのです。

嬉しい時には微笑みたいし、怒ったときには悲しみたい。悲しいときには優しくありたい。それが素朴ってものだと思うのです。

分からない時には、ただ、首をかしげたい。分かっている時には、ただ、落ち着いていたい。大海を知らないことを、知っている。そんな井の中の蛙に、わたしはなりたいのです。

凄いと思ったのなら、どんなものでも、凄いと言いたい。嫌だと思ったのなら、どんなものでも、嫌だと言いたい。言葉を覚えたのは、想いを伝えるためだったということを覚えていたいのです。

鼓膜に伝わる振動から、あなたのさみしさを汲み取りたい。そしてわたしのさみしさで、わたしの喉を震わせたい。わたしは覚えていたいのです。さみしさ以外は雑音なのだということを。

知らないことは、「知りません」、できないことは、「できません」と、すっきり、はっきり、言い切りたい。ただ、本当のことを言いたいのです。

世界からにじみ出る色を感じたい。そして、自分からにじみ出る色で答えたい。他の色で塗りつぶされても、それでもにじむその色で、わたしは世界を彩りたいのです。

あらゆる矛盾に苛まれ、絶望していたい。人生の意味など、分からないまま生きていたい。そんな世界と、そこに生まれたわたしを、そのまま受け入れたいと思うのです。

わたしは素朴でありたいのです。素朴に素朴でありたいのです。

時代に規定される、問題のない私たち

私は”売れているもの”が嫌いである。

 

 

時は流れる。社会情勢も移ろっていく。それに合わせて、音楽、文学、漫画などのコンテンツの内容も変遷していく。その変遷はもちろんグラデーションになっているが、後になって振り返ると、その時その時である程度のまとまりを持っているように見える。

このまとまりの一つ一つを時代と呼ぶのだろう。

人は時代に逆らえない。ある時代に生まれたからには、その時代にある程度規定された人生を歩むしかない。2000年に生まれた人は、1960年に生まれた人と同じ生活をすることはもはやできない。

このように考える時、私の中に恐怖が走る。それは、自分という存在の消失に対する恐怖である。

私は何者なのか。この問は長年人類を悩ませてきた。自分は何が好きで、嫌いで、その理由は何なのか。人生では何をしていくべきなのか。なんのために生きているのか。

これらの問の答えは、シンプル、かつ、パワフル、かつ、冷酷である。「時代」だ。

例えば、あなたがドラえもんを好きだとしよう。それは、あなたがドラえもんが放送されている時代に生まれ、それが莫大な広告費を使って宣伝され、さまざまなタイアップ商品が氾濫している時代に生まれたからである。50年後に生まれていたら、同じように好きになる保証は何一つ無い。

また、あなたが戦争を排除するべきものと考えているとしよう。それは、あなたが戦後の敗戦国に生まれ、戦争はいけないというプロパガンダが流布された後の時代に生まれたからである。戦前に生まれていれば、あなたは一番に志願兵になっていたかもしれない。

これが私の恐怖の理由である。自分は、今の時代に規定されただけの存在なのではないのか。私の自我は、究極的には「時代」という訳の分からないものの一部にとりこまれてしまい、同じ時代を生きる他の人々と区別のつかないものになってしまうのではないか。自分=時代になってしまうのではないか。

だから、私は”売れているもの”が嫌いなのだ。いや、正確に言えば、意図的に嫌おうとしているのだ。

今売れているものを買うという行為。これは、一見能動的に見える。しかしその実、どこかの会社が企画をし、打ち出された宣伝を見て、それに操られ、自分の人生の一部を消費させられているにすぎない。

その企画のガイドライン(これが売れるという指針)は「時代」であるため、私達が「流行っている」ものを買うとき、それは時代に”買わされている”のである。何かを買っているつもりが、逆に、自分という存在を時代に”売り渡している”のである。

その対価に私達は安心感を得る。「私はみんなと同じ。間違っていない。」というかりそめのプライドを手に入れる。

しかし、それは支払った代償に見合うものだろうか?あなたがそれを手に入れるために売り渡したのは、あなた自身である。安心感もプライドも、あなたあってのものではないか。あなたがいなくなったその後に、そんなものだけが残って、何の意味があるというのだろうか。

流行に反応してはいけない。否。反応させられてはいけない。あなたが自分自身と、その上に築かれた幸福を取り戻したいのであれば。

矛盾と逆説

 この世界は矛盾で溢れている。それはだれもが気づいているだろう。そもそも私達は、“死ぬのに、生きている”。生まれた瞬間から我々自身が矛盾そのものだ。しかし、それを指摘することにどれほどの意味があるだろうか。矛盾だ、矛盾だ、矛盾だ、と、指摘し続けた先に何があるというのだろう。それは、単なる状態の説明にすぎず、事態を一向に変化させることは無い。つまり、矛盾だ、と発言すること事態、矛盾である。

 しかし、そう言いたくなる気持ちも分かる。理にかなわない、納得できないことに直面すると、私達は憤り、混乱し、無力感にさいなまれる。その無力感を紛らわせるために、人間は矛盾という言葉を使うのではないだろうか。その状態を名付けることによって、あたかもそれを征服したかのように感じ、なんとかそれを忘れて生きようと試みてきたのが人間という生き物なのではないだろうか。

 しかし、繰り返しになるが、矛盾という言葉でいくらこの世界の不条理を名付けたとしても、その状態は変わらない。忘れた頃にそれは再び姿を表し、私達に無力感をもたらすだろう。では、どうすれば良いのか。

 私は、”逆説”を使いたいと思う。“死ぬのに、生きている”ではなく、“死ぬからこそ、生きている”、と宣言してみるのである。このように、矛盾を逆説へと変えることによって、ただ状態を表していただけの言葉が、力と方向を持ったベクトルへと変化するのである。受動が能動になり、活力が生まれ、事態が動き始めるのである。

 もちろん、言い方を変えただけでは、その矛盾が消えることはない。死ぬ理由も生きる理由も未だ謎のままである。しかし、逆説を使えば、それを受け入れることができる。矛盾という言葉を使い、臭いものに蓋をするかのごとく不条理に目をそむけて生きていくのではなく、不条理もひっくるめてこの世界の実相を凝視することができる。それを味わい尽くし、そんな世界と、そんな世界に生まれた自分の両方を肯定しながら生きていくことができるのである。これは希望である。矛盾は絶望であり、逆説は希望なのだ。

 どうして生きているのか分からない。だからこそ生きようではないか。どうせ無くなるものである。だからこそ作ろうではないか。どうせ死ぬその人を、だからこそ愛そうではないか。

 シュレーディンガーは、「生物は負のエントロピーを食べて生きている」と言った。私はこれを、「生物は矛盾を食べて生きている」と言い換えたい。大局的に見ればただ乱雑さ(無秩序さ)を増していくだけの宇宙において、最終的にはその大波に飲まれると知りながらも、小さな秩序を生み出しながら生きているのが生物である。つまり、大きな矛盾を食べて、小さな逆説に変えながら生きているのが生物なのである。私達はそういう存在なのだ。そして、そうだと知りつつ、そうだからこそ、あえてそのように生きていこうという逆説を、私はここに宣言したい。それが、すべての希望の始まりである。

カオナシはあなたの中にいるのです

 カオナシとは何なのだろう。あの白と黒の仮面の下には一体何が隠れているのだろう。私達は彼を、心のなかでどのように消化すればいいのだろう。

 私にとって、カオナシは消化不良の権化だった。小さい頃に映画館で見てから、もう何十回もDVDで見てきたが、彼が一体何者なのか、それは大きな問のまま私の中にとどまってきた。

 しかし、先日もう一度映画館で彼を見た時、私の中に、彼に対する理解者がいることを発見した。その理解者は私に対してこうささやくのである。「カオナシは、あなたの中にいますよ。」と。

 カオナシは喋らない。正確に言えば、彼は普段、意味のある言葉を発しない。彼が意味のある言葉を喋るのは、誰かを飲み込み、他人の声を手に入れた時だけである。これは何を意味するのだろうか。

 私達は喋る。誰かと会って、あいさつをし、質問をされればそれに答え、相手に伝えたいことがあれば、ときには喧嘩腰になって主張をするのである。このとき、私達の声は、本当に私達の声だろうか?自分が心から思っていることを話し、自分の経験から学んだ自分自身の声をあげているだろうか。他の誰かの言葉をしゃべってはいまいか。スノビズムに陥ってはいまいか。虎の威を借りているだけではないか。親の受け売りではないか。昨日テレビで誰かが喋ったことではないか。それは、本当にあなたの心の声なのか…。

 私達の内、何人がこれらの問に自信を持って答えられるだろう。

 私は知識が好きである。いつも情報に飢えている。新しい概念を覚え、それを人前で説明し、人々を、そして出来事を既成概念に取り込むことが好きである。その理由は、そこから安心感を得られるからだと思う。誰かが作った概念に、目の前に立ちはだかる問題を押し込め、先人たちにその解決を委ねるのである。自分で考え、自分の言葉で語ることから逃げているのである。そうすることによって傷つくことから逃げ出しているのである。

 カオナシは自分で喋らない。誰かの声を借りて喋るのだ。そうして喋る時、彼は自信たっぷりだ。それ以外の時はあれだけおどおどしているというのに。それはまるで、何に怯えているのか、それすら分からない状態そのものに怯えているようにも見える。

 私達は何に怯えているのだろう。

 最近、愛着障害という概念にたどり着いた。心の「安全基地」を持てなかった人は、人に頼るのが苦手になったり、自己肯定感が低かったりすることがあるというのだ。安全基地は、普通、親である。カオナシ千尋に、お母さんやお父さんはどうしたのかと聞かれる。その問に明らかに動揺した彼は、首をすぼめる。

 カオナシには安全基地が無いのだろうと思う。だから自分に自信が無く、嫌われることにビクビクしている。何かを喋る時、口から出るのは自分では無い、誰かの声である。自分が作り出した声でないならば、安心して話すことができるのだ。

 私達の中にカオナシはいる。私達は、時に拒絶を怖れ、自己主張をする前に他人にどう迎合できるかを考える。何かを主張するときに使う声が人の声になる。言い訳を用意しているのだ。これはどこそこの誰それが言っていた。私の言葉では無い。そういう言い訳ができるという安心感に立脚した虚栄心によりかかることで私達は自己主張をするのである。そして、ここで主張される自己はあくまで、仮面をつけたカッコつきの「自己」なのである。

 しかし、その声は千尋には届かない。あなたが欲しいあの人は、振り向いてくれることは無いのである。

 すべてを吐き出し、声を失ったカオナシは、千尋とぜにーば邸に行き、髪留めを作るぜにーばを手伝う。彼は何も喋らないが、その糸を紡ぐ姿勢は、ある種の声となる。そして、その声はぜにーばに届き、彼女はカオナシを家に住まわせる。カオナシは安全基地を手に入れるのである。

 自分の言葉で語れないのなら、語らない方が良い。言葉を取り去った後に残る行動と姿勢にあなたの声は滲み出る。滲み出る以上、いずれは誰かがそれを受け取る。そうして初めて、あなたは仮面を外したありのままのあなた自身として人とつながることができる。自分の声の居場所を見つけることができる。もう誰の声も借りる必要は無い。“輝くものはいつもここに、私の中に見つけられた”のだから。