矛盾と逆説

 この世界は矛盾で溢れている。それはだれもが気づいているだろう。そもそも私達は、“死ぬのに、生きている”。生まれた瞬間から我々自身が矛盾そのものだ。しかし、それを指摘することにどれほどの意味があるだろうか。矛盾だ、矛盾だ、矛盾だ、と、指摘し続けた先に何があるというのだろう。それは、単なる状態の説明にすぎず、事態を一向に変化させることは無い。つまり、矛盾だ、と発言すること事態、矛盾である。

 しかし、そう言いたくなる気持ちも分かる。理にかなわない、納得できないことに直面すると、私達は憤り、混乱し、無力感にさいなまれる。その無力感を紛らわせるために、人間は矛盾という言葉を使うのではないだろうか。その状態を名付けることによって、あたかもそれを征服したかのように感じ、なんとかそれを忘れて生きようと試みてきたのが人間という生き物なのではないだろうか。

 しかし、繰り返しになるが、矛盾という言葉でいくらこの世界の不条理を名付けたとしても、その状態は変わらない。忘れた頃にそれは再び姿を表し、私達に無力感をもたらすだろう。では、どうすれば良いのか。

 私は、”逆説”を使いたいと思う。“死ぬのに、生きている”ではなく、“死ぬからこそ、生きている”、と宣言してみるのである。このように、矛盾を逆説へと変えることによって、ただ状態を表していただけの言葉が、力と方向を持ったベクトルへと変化するのである。受動が能動になり、活力が生まれ、事態が動き始めるのである。

 もちろん、言い方を変えただけでは、その矛盾が消えることはない。死ぬ理由も生きる理由も未だ謎のままである。しかし、逆説を使えば、それを受け入れることができる。矛盾という言葉を使い、臭いものに蓋をするかのごとく不条理に目をそむけて生きていくのではなく、不条理もひっくるめてこの世界の実相を凝視することができる。それを味わい尽くし、そんな世界と、そんな世界に生まれた自分の両方を肯定しながら生きていくことができるのである。これは希望である。矛盾は絶望であり、逆説は希望なのだ。

 どうして生きているのか分からない。だからこそ生きようではないか。どうせ無くなるものである。だからこそ作ろうではないか。どうせ死ぬその人を、だからこそ愛そうではないか。

 シュレーディンガーは、「生物は負のエントロピーを食べて生きている」と言った。私はこれを、「生物は矛盾を食べて生きている」と言い換えたい。大局的に見ればただ乱雑さ(無秩序さ)を増していくだけの宇宙において、最終的にはその大波に飲まれると知りながらも、小さな秩序を生み出しながら生きているのが生物である。つまり、大きな矛盾を食べて、小さな逆説に変えながら生きているのが生物なのである。私達はそういう存在なのだ。そして、そうだと知りつつ、そうだからこそ、あえてそのように生きていこうという逆説を、私はここに宣言したい。それが、すべての希望の始まりである。