時代に規定される、問題のない私たち

私は”売れているもの”が嫌いである。

 

 

時は流れる。社会情勢も移ろっていく。それに合わせて、音楽、文学、漫画などのコンテンツの内容も変遷していく。その変遷はもちろんグラデーションになっているが、後になって振り返ると、その時その時である程度のまとまりを持っているように見える。

このまとまりの一つ一つを時代と呼ぶのだろう。

人は時代に逆らえない。ある時代に生まれたからには、その時代にある程度規定された人生を歩むしかない。2000年に生まれた人は、1960年に生まれた人と同じ生活をすることはもはやできない。

このように考える時、私の中に恐怖が走る。それは、自分という存在の消失に対する恐怖である。

私は何者なのか。この問は長年人類を悩ませてきた。自分は何が好きで、嫌いで、その理由は何なのか。人生では何をしていくべきなのか。なんのために生きているのか。

これらの問の答えは、シンプル、かつ、パワフル、かつ、冷酷である。「時代」だ。

例えば、あなたがドラえもんを好きだとしよう。それは、あなたがドラえもんが放送されている時代に生まれ、それが莫大な広告費を使って宣伝され、さまざまなタイアップ商品が氾濫している時代に生まれたからである。50年後に生まれていたら、同じように好きになる保証は何一つ無い。

また、あなたが戦争を排除するべきものと考えているとしよう。それは、あなたが戦後の敗戦国に生まれ、戦争はいけないというプロパガンダが流布された後の時代に生まれたからである。戦前に生まれていれば、あなたは一番に志願兵になっていたかもしれない。

これが私の恐怖の理由である。自分は、今の時代に規定されただけの存在なのではないのか。私の自我は、究極的には「時代」という訳の分からないものの一部にとりこまれてしまい、同じ時代を生きる他の人々と区別のつかないものになってしまうのではないか。自分=時代になってしまうのではないか。

だから、私は”売れているもの”が嫌いなのだ。いや、正確に言えば、意図的に嫌おうとしているのだ。

今売れているものを買うという行為。これは、一見能動的に見える。しかしその実、どこかの会社が企画をし、打ち出された宣伝を見て、それに操られ、自分の人生の一部を消費させられているにすぎない。

その企画のガイドライン(これが売れるという指針)は「時代」であるため、私達が「流行っている」ものを買うとき、それは時代に”買わされている”のである。何かを買っているつもりが、逆に、自分という存在を時代に”売り渡している”のである。

その対価に私達は安心感を得る。「私はみんなと同じ。間違っていない。」というかりそめのプライドを手に入れる。

しかし、それは支払った代償に見合うものだろうか?あなたがそれを手に入れるために売り渡したのは、あなた自身である。安心感もプライドも、あなたあってのものではないか。あなたがいなくなったその後に、そんなものだけが残って、何の意味があるというのだろうか。

流行に反応してはいけない。否。反応させられてはいけない。あなたが自分自身と、その上に築かれた幸福を取り戻したいのであれば。