あきらめコンテンツの時代と森田童子 上

はっきりと言おう。今は、あきらめコンテンツの時代である。

そう考える根拠は2つ。異世界転生系コンテンツの台頭と、ヒットソングの歌詞である。

まず、異世界転生系。

転生したらスライムだった件」、「二度目の人生を異世界で」、「Re:ゼロから始める異世界生活」...。このように、名前をあげればきりがないほど、同様のコンテンツが氾濫している。

異世界に転生して、人生をやり直す。こう言うと、一見聞こえは良いが、つまりそれは、今住んでいるこの世界で、この人生をどうにかしようという気は全く無いということである。

もう自分の人生は終わっているから、何か凄いことをするのなら、転生でもしない限り無理、という大きなあきらめが、これらのコンテンツの下地になっていると感じる。

次に、ヒットソング。

まずは、昨年末の紅白歌合戦でも演奏されたOfficial髭男dismの「Pretender」。歌詞の一部を引用する。

もっと違う設定で もっと違う関係で 出会える世界線 選べればよかった もっと違う性格で もっと違う価値観で 愛を伝えられたらいいな そう願っても無駄だから
そして、これまた昨年の紅白出場、King Gnuの「白日」から。

まっさらに生まれ変わって 人生一から始めようが へばりついて離れない 地続きの今を歩いて行くんだ 真っ白に全てさようなら 降りしきる雪よ 全てを包み込んでくれ 今日だけは 全てを隠してくれ
芸人など、多くの芸能人がカバーしたことでも話題になった瑛人の「香水」からも引用したい。

でも見てよ今の僕を クズになった僕を 人を傷つけてまた泣かせても 何も感じ取れなくてさ
別に君をまた好きになるくらい君は素敵な人だよ でもまた同じことの繰り返しって 僕がフラれるんだ
さて、この3曲の歌詞を見て、どう感じるだろうか。

異世界転生系コンテンツと同様、私はそこに、大きなあきらめを感じる。というか、もはや、”あきらめしか”感じない。

どうせやっても変わらない。こうやって生きていくしか無い。もう頑張らない。

そんな空気が濃く漂っている。

売れるコンテンツとは、その時代の空気感にマッチしたものだと思う。共感する人が多いからこそ、売れるのである。

ということはやはり、異世界転生系コンテンツやヒットソングに通底している、この”あきらめ”こそが現代の日本人を包み込む感情なのだろう。

「なるようにしかならない。」「頑張っても無駄。」「未来に希望なんかない。」「ただ粛々と生きていこう。」

こういった感情に、今の日本人は支配されているのではないだろうか。

だが、それも無理のないことかもしれない。指数関数的な科学技術の発展に伴い、社会やライフスタイルは目まぐるしく変化している。その中にあっては、抗おうとも抗えないものに、頻繁に直面せざるを得ない。そんな生活が続けば、無力感にさいなまれるのも致し方ない。

しかし、やはりこれは、非常に悲しいことである。未来を担う若者が、このようなコンテンツに頻繁に触れ、希望の芽を自ら摘んでいるのだから。

しかし、このようなコンテンツは、何も今だけのものではない。実は、過去にもこうしたあきらめを歌っていた時代があった。

1970年代。全共闘が収束した直後、社会を変えることができなかったという大きな”あきらめ”が若者を襲った時代である。

その時代、ある一人のミュージシャンがデビューした。彼女の名は、森田童子(もりたどうじ)。

続く