アシタカはなぜ「生きろ。」と言ったのか(もののけ姫考察)

 映画もののけ姫で、瀕死になった主人公アシタカは、もののけ姫サンに対し「生きろ。」と告げる。では、どう生きれば良いのか。私は、この映画にそう問われているように感じた。生きるとはどういうことなのだろうか。
 主人公アシタカは不条理に苛まれながら生きる少年である。彼が平和に暮らしていた村に、ある日タタリ神が襲いかかる。アシタカはタタリ神をなんとか鎮めようと説得を試みるが、それでも止まらないタタリ神に彼は叫ぶ。「なぜ我が村を襲うのか?」これは、身に降りかかる不条理に対して放たれた彼の第一声である。村の少女たちに襲いかかるタタリ神に彼はやむを得ず弓を引き、打ち倒すが、右腕に呪いを受ける。その呪いは死に至るものであり、彼は村を追われる。ただ平和に暮らしていただけのアシタカは、村を救うために戦い、それによって死の呪いを受け、流浪の生活を始めざるを得なくなるのだ。
 もののけ姫サンもまた、不条理とともに生きる少女である。彼女は赤ん坊の頃、山犬モロの生贄として差し出され、その後モロに育てられた。山犬と自然の中で生きてきた彼女は、自分は山犬であると宣言し、山を削る人間を憎んでいる。しかし、山の神々は彼女を山犬とはみなさない。彼女はもののけになりきることはできないのである。彼女は好き好んで人間として生まれたわけではない。むしろ心から山犬になりたい。しかし、いくら毛皮をはおり、仮面をつけても、彼女はやはり人間なのである。サンは、彼女自身が、彼女が心から憎む人間であるという事実から逃れられないのである。
 このように、彼らの人生は、彼らの予想もできないような事柄に、一方的に翻弄されている。どれだけもがき、あがこうと、決して変わることのない何かを抱えながら生きることを余儀なくされている。この上ない不条理。理由のない苦しみ。折り合いのつけられない感情。彼らに降りかかるのはこういった種類の試練である。それでもアシタカはサンに言うのだ。「生きろ。」と。
 アシタカはなぜ生きるのだろう。それは、彼にふりかかった不条理に対する回答を見つけるためである。自分はなぜ苦しまなければいけないのか。その苦しみを取り除く方法は無いのか。映画の前半は、それを見定める旅が、彼にとって生きるということだった。そして、彼はその回答を得る。彼の苦しみの原因はタタラ場にあり、呪いは消えることはない、という回答である。これはアシタカに、彼に巣食う不条理の根深さを伝え、絶望を与える。少しずつ大きくなる呪いのアザは、消えることのない不条理の刻印であると彼は知る。
 しかし、それでも彼は生き続ける。それはなぜか。彼の周りに生きる生命が、共に生きる道を探すためである。サンやタタラ場の人々だけでなく、森や神々、そのすべてが共に生きる道を探すためである。この時彼を動かしていたのは、彼を不条理の穴に落とし込んだ人間の業と、そこから生まれる恨みに対する恨みであったと考える。彼は恨みを恨んでいる。人がもののけを恨むのか、もののけが人を恨むのか。彼にとってそれは重要なことではない。彼は恨みそのものを恨んでいるのだ。彼は身を持って痛感している。恨みが生むのは悲しみと怒りだけであるということを。彼は刻々と終わりに近づく命を、恨み以外の答えを見つけ出すために燃焼する。人間活動と自然。タタラ場と森。エボシとサン。人間の業とシシ神。これら利害が相反する存在が共に生きる道はないのか。映画の後半は、この問の答えを探すことが、彼の生きる意味になった。
 ここで私達自身に目を向けてみよう。私達が日々抱える葛藤の原因の多くは、私達が干渉のしようのない場所で形成される。例えば、テストの点数が伸びずに悩むのは、テストの結果で人間の優劣が決まるというシステムのある社会に生まれたからであり、お金が無いと悩むのは、資本主義社会に生まれたからである。私達の持つ苦しみの中で、(自分自身で解決することが非常に困難であるという意味で)最も厄介な苦しみは、この種の苦しみ、つまり、わけのわからないまま、気がついたら苦しんでいる、という種類のものである。これは不条理以外の何物でもない。つまり、アシタカやサンだけでなく、私達の人生にも不条理はついてまわっているのだ。そしてその不条理を意識する時、私達は、狼狽の檻の中に閉じ込められ、憔悴し、ニヒリズムへといざなわれる。そして、疑問を抱くことにすら疑問を抱くようになってしまう。「そんなことを考えてもどうせ変わらないでしょう」と。
 これは生きる意味の消失である。「どうせこういう風に生きるしかないんでしょ」このような言葉で作られたフレームに人生をはめ込み、場当たり的な快楽を目指し、無気力に過ごす。これが不条理のいざなう世界である。それでも、順調に物事が進んでいるときは特に問題はないかもしれない。しかし、そんな状態で人生の岐路に立たされると、話は違う。その瞬間、私達は自分で選び取らなければいけなくなるのである。不条理に対し、不条理だと分かりながら、手を伸ばさなければいけないのである。その手の伸ばし方を考えなければいけないのである。
 私達は、このような瞬間にどう備えれば良いのだろうか。そのヒントを、アシタカから得ることができる。彼は、それが不条理であると知りながら不条理に挑む。タタラ場と森は共存し得ないと分かっていながらも、その道を模索しつづけることを諦めないのである。その時、呪いのアザが広がる彼の背中を押ししたものは一体何だったのだろうか。
 私はそれを、天命とも呼べる使命感だと考えている。そして、その使命感は、彼が不条理を受け入れることで得られたものだと考える。アシタカは、彼に襲いかかったタタリ神の想いを受け入れ、その原因となったタタラ場の人々とその生活を受け入れ、それらに人生を変えられた自分自身を受け入れる。誰かを敵にして、恨み、排除するのではなく、矛盾する存在が相互に作用しているこの世界そのものと、それに翻弄される小さな存在である自分をまるごと受け入れる。それが全編を通してアシタカを貫く姿勢である。その上で彼は考えたのだろう。自分がするべきことは何なのか、と。世界の不条理と自分の人生を「曇りなき眼」で見た彼は、恨みが悲しみと怒りを生み、新たな恨みへとつながっていくことを知る。そして、恨みをこの世界から無くすという使命を、天命を感得するのである。
 私も、受け入れることから始めてみたい。この世の不条理を。終わることのない矛盾を。そして、そんな世界にさいなまれる自分を。そうすることで、目の前の霧を払うのだ。そして、自分の人生を直視するのだ。そうすれば自然と立ち現れてくるだろう。この世界に生まれた私がなすべきことが。私が生まれ、生きる理由が。たとえそれが、自分が思い描いていたような立派なものでは無かったとしても、それによって生きることが、本当に生きるということなのではないだろうか。それが、この映画が私に問う生き方なのではないだろうか。
 ラストシーン、一度は全ての生命が吸い取られた山々に草木が芽生え、一匹のこだまがカラカラと首を揺らす。これは、原生林の大いなる復活とは程遠いほんの小さな再生である。しかし、この再生は、アシタカがこの世界で、サンとエボシと、森とタタラ場で“共に生きていく”ことを祝福しているかのようである。