カオナシはあなたの中にいるのです

 カオナシとは何なのだろう。あの白と黒の仮面の下には一体何が隠れているのだろう。私達は彼を、心のなかでどのように消化すればいいのだろう。

 私にとって、カオナシは消化不良の権化だった。小さい頃に映画館で見てから、もう何十回もDVDで見てきたが、彼が一体何者なのか、それは大きな問のまま私の中にとどまってきた。

 しかし、先日もう一度映画館で彼を見た時、私の中に、彼に対する理解者がいることを発見した。その理解者は私に対してこうささやくのである。「カオナシは、あなたの中にいますよ。」と。

 カオナシは喋らない。正確に言えば、彼は普段、意味のある言葉を発しない。彼が意味のある言葉を喋るのは、誰かを飲み込み、他人の声を手に入れた時だけである。これは何を意味するのだろうか。

 私達は喋る。誰かと会って、あいさつをし、質問をされればそれに答え、相手に伝えたいことがあれば、ときには喧嘩腰になって主張をするのである。このとき、私達の声は、本当に私達の声だろうか?自分が心から思っていることを話し、自分の経験から学んだ自分自身の声をあげているだろうか。他の誰かの言葉をしゃべってはいまいか。スノビズムに陥ってはいまいか。虎の威を借りているだけではないか。親の受け売りではないか。昨日テレビで誰かが喋ったことではないか。それは、本当にあなたの心の声なのか…。

 私達の内、何人がこれらの問に自信を持って答えられるだろう。

 私は知識が好きである。いつも情報に飢えている。新しい概念を覚え、それを人前で説明し、人々を、そして出来事を既成概念に取り込むことが好きである。その理由は、そこから安心感を得られるからだと思う。誰かが作った概念に、目の前に立ちはだかる問題を押し込め、先人たちにその解決を委ねるのである。自分で考え、自分の言葉で語ることから逃げているのである。そうすることによって傷つくことから逃げ出しているのである。

 カオナシは自分で喋らない。誰かの声を借りて喋るのだ。そうして喋る時、彼は自信たっぷりだ。それ以外の時はあれだけおどおどしているというのに。それはまるで、何に怯えているのか、それすら分からない状態そのものに怯えているようにも見える。

 私達は何に怯えているのだろう。

 最近、愛着障害という概念にたどり着いた。心の「安全基地」を持てなかった人は、人に頼るのが苦手になったり、自己肯定感が低かったりすることがあるというのだ。安全基地は、普通、親である。カオナシ千尋に、お母さんやお父さんはどうしたのかと聞かれる。その問に明らかに動揺した彼は、首をすぼめる。

 カオナシには安全基地が無いのだろうと思う。だから自分に自信が無く、嫌われることにビクビクしている。何かを喋る時、口から出るのは自分では無い、誰かの声である。自分が作り出した声でないならば、安心して話すことができるのだ。

 私達の中にカオナシはいる。私達は、時に拒絶を怖れ、自己主張をする前に他人にどう迎合できるかを考える。何かを主張するときに使う声が人の声になる。言い訳を用意しているのだ。これはどこそこの誰それが言っていた。私の言葉では無い。そういう言い訳ができるという安心感に立脚した虚栄心によりかかることで私達は自己主張をするのである。そして、ここで主張される自己はあくまで、仮面をつけたカッコつきの「自己」なのである。

 しかし、その声は千尋には届かない。あなたが欲しいあの人は、振り向いてくれることは無いのである。

 すべてを吐き出し、声を失ったカオナシは、千尋とぜにーば邸に行き、髪留めを作るぜにーばを手伝う。彼は何も喋らないが、その糸を紡ぐ姿勢は、ある種の声となる。そして、その声はぜにーばに届き、彼女はカオナシを家に住まわせる。カオナシは安全基地を手に入れるのである。

 自分の言葉で語れないのなら、語らない方が良い。言葉を取り去った後に残る行動と姿勢にあなたの声は滲み出る。滲み出る以上、いずれは誰かがそれを受け取る。そうして初めて、あなたは仮面を外したありのままのあなた自身として人とつながることができる。自分の声の居場所を見つけることができる。もう誰の声も借りる必要は無い。“輝くものはいつもここに、私の中に見つけられた”のだから。